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オセロー感想/「正直者のイアーゴー」は虚構であるか否か。

作品としての考察だとか解釈に関しては、私なんぞよりよっぽど素晴らしい記事を書いて下さってる方々がいるので、私が書いていくのは私が思ったイアーゴーの像と一番気になった「彼の動機は何だったのか」という所に焦点を当てた文章になります。

思ったままを書き殴った、一個人の感想なので皆さまの思う所とは違う感想もあるかもしれませんが、こんな考えもあるんだな位に読んでいただければ幸いです。

あと、一公演しか入ってないので台詞とか演出の解釈間違いもあるやもですし、セリフとか一字一句正確じゃないので、文庫本参考にうろ覚えのニュアンスで書いてるのでその辺りはご容赦ください…。

 


私の序盤で抱いたイアーゴーへの印象は「この人、無茶苦茶頭いいんだろうな」という頭悪いかつ安直極まりないものだったんですが。
冒頭から出てくる、ただ己が恋の成就しか見えていないロダリーゴー、お互いへの愛しか見えていないオセロー夫妻、そして自分の名声復権に必死となるキャシオー。
自分の目前の欲求しか見えていないような登場人物の中で、イアーゴーは唯一「誰がどう思っているか」という感情の向きを正しく理解し、客観的なものの見方ができる人だと思ったのが最初の印象でした。

加えて悪魔的な話術の巧みさにより、誰がどう何を思っているのか。そういう部分にスパイスを振りかけ、巧みに感情の向きを自分の思う方向へ誘導し、物事をいいように進めることのできてしまう人だと。

 

 ただ、そんな彼がなんの為に動いているのか。最後まで見終わって一番わからなかったのがその”動機”でした。

 ”目的”で言ってしまうのなら、「キャシオーから副官の座を奪い取ること」でしょう。その動機だって自分が選ばれなかったことへの逆恨みだとハッキリ言っていて、「ムーアの奴を激しい嫉妬の発作に追い込み、心の平和を狂わせて」やろうという復讐だと序盤で彼の企みの全容は明言されているわけですが。

 

それでも動機がわからないと感じるのは、 むしろ作中で本人の口から明言されている動機だけでも複数あるため、どれが一番感情として強いものなのか?という疑問。

 

個人的に気になった所から、一つずつ解釈していきたいと思います。

 

まず一つ目「俺もデズデモーナに惚れている」。

正直、作中でも一番動機としては薄いんではないかなーという所からなんですが、おそらく皆が引っ掛かるセリフだと思うので、ここから行かせていただきます。

 

性欲的なものではない、と言うイアーゴー。なら、この「惚れている」はどういう感情であるのか。

ここでちょっと舞台衣装についても言及したいのですが、全編を通してうっすらと衣装や言動から「イアーゴーはもしかしたらそんなに身分の高い人ではないのでは?」と感じていました。

もちろんキャシオーと比べてでは副官という肩書のある彼のほうが、衣装が華やかなのはそうなのですが。サーベルや長剣などの武器を持っている兵士も他にも何人か登場する中で、イアーゴーが始終所持しているのは短剣一本のみという演出。軍人という地位をおそらく持っていないロダリーゴーと比べても、冒頭ではロダリーゴーのほうが衣装が華やかで貴族然とした雰囲気を纏っていて、舞台衣装や小道具から想起させられるイアーゴーはどちらかと言えば庶民の出のような空気が強いように思います。

 

「惚れている」という言葉は劇中の序盤でサラッと語られるのみであるため、その言葉を聞いた時には「ホントに?」と動機としては弱いように感じてしまうのですが、イアーゴーが身分が低く地位や権力では認められ辛い立場だったと考えれば、「同じ国のいかなる裕福な貴公子すら断り続けて」、内面を深く愛してオセローを選んだデズデモーナの心根に惹かれるのは説得力があるような気がするのです。

 

そして、二つ目。オセローに対する復讐心についても実は土壌にあるものは同じものであったのではないかという推測。

基本的に、イアーゴーがオセローに見せる顔はすべて「誠実で」「正直者」の信頼のおける部下としての顔です。その皮を被って、口から語られる言葉はすべて毒を注ぎ込む為のものばかりであり、嘘がほとんどなのですがそれでも唯一、彼がオセロー将軍に対してこぼした本音だったのではないかと思ったのがこの部分でした。

 「これを限りにお暇をいただきます。職も免じて下さいますよう。誠実一点張りの挙句に悪党呼ばわりされるとは!ああ!!可笑しな世の中だ!」

 

当然ながらこれも言葉自体は演技・嘘虚構でオセロー将軍のほうが正しく、イアーゴーは「悪党」で間違いないわけなのですが。

 

 ここで、タイトルにも挙げた主題の話をしたいと思います。「正直者のイアーゴー」は本当に虚構であるのか?

すでにこの「オセロー」では、策略が始まってしまっているために「誠実な」イアーゴーの顔で囀るのは人を騙すための言葉ばかり。策を練る悪役の面としてのイアーゴーが彼の本音(まあそれも間違いではないのですが)、本当の顔のように出てくるのでどうしても他の登場人物の言う、「誠実な」「正直者の」イアーゴーは観客にとっては皮肉のように、虚構のように見えてしまうわけですが。

 

復讐を決意し動き出すまでのイアーゴーは、それが処世術だったとしても「誠実な」イアーゴーとして仕えてきたわけですよね。

それが例え地位の為だったとしても、表向きだったとしても彼は軍人として、その働きでもって誠実さでオセロー将軍に尽くし、仕えてきたわけです。作中および原作では「ムーアの奴」と蔑称すら使うイアーゴーですが、もともと身分があるわけではなく努力や自分の力で成り上がったオセローであれば、自分のことを取り立ててくれる筈という思い(これを思いととるか計算と取るかも悩むところではあるのですが)もあったのではないでしょうか。それなのに、副官に任命されたのはマイケル・キャシオー。

「悪党」であるのはその通りなのですが、その後に続く「正直者が馬鹿をみる!!!」は「誠実な・正直者な」だけでは何の役にも立たないと地位や名誉は結局は得られないと、オセローに対して抱いていた期待が裏切られた。オセロー将軍に対しての当てつけの彼の本音の叫びだったのではないかと思います。

 

 

 

身分や権力ではなく、「正直」「誠実」という中身で自分の能力を認めてくれる筈という「信」をイアーゴーはオセローに対して抱いていたのではないかと。

 

 

 とはいえ、本当にイアーゴーが一欠けらの良心もない悪党で、完全に「正直者のイアーゴー」は作られた顔。思ってもいない虚言・虚構である可能性もあります。

事実、シェイクスピアに対する知識も予習も何もなしにパンフレットのあらすじのみでこの「オセロー」にぶっつけ本番で入った私は、「イアーゴーは極悪非道の悪人」という前提でずっと最後まで観劇しました。

けれど、その観方ではどうしても腑に落ちない点があって、「正直者のイアーゴー」も少なからず彼の本心であったのではないかと考えるほうが私的には納得できたのです。

 

この作品のテーマは「嫉妬」。

もっとイアーゴーの毒はじわじわと回っていくものだと思っていた予想に反して、二度疑いを吹き込んだ辺りでオセロー将軍はだいぶ揺らいでいて、お話の半分を過ぎるほどではすでにイアーゴーの言葉ばかりを信じてデズデモーナへの恋情と嫉妬へ狂っていく。

意外でしたがこれは、この舞台におけるオセローという人物にとって、「信頼」がいかに重要なものであるかということに由来していると思います。

まずは、妻デズデモーナに対する信頼。これまで武力でもって全てを手にしてきたオセロー。そんな彼にとって、国中でも評判の非の打ち所がなく美しく高貴な女性が外見や身分など関係ないと、中身でもって自分を選んでくれたことへの感動と信頼。これがデズデモーナに対する深い愛情の核とも言えるとも思うのです。

彼女が自分を外見でなく中身で選んでくれた、崇高な女性だという「信頼」。

そして、作品ではあまり言及されてはいないのですが、「二人の仲を取り持ってくれた」ほどの関係であり、キャシオーに対する信頼もオセローは深かったのではないでしょうか。そんな「信頼」を寄せていた二人の裏切りだと示唆されるからこそ、オセロー将軍はあれほどまでに心を搔き乱される。

身分や人種では認められない将軍にとって、自分を心から慕い、尽くしてくれる人間の「信頼」は一番重要なものだったんですよね。

 

この二人への「信頼」に、イアーゴーは酒の席での騒動を皮切りに少しずつ「疑い」という名の毒を混入していきます。確かにあると思っていた信頼に疑いを刻まれて、そこにある「信頼」の形を見失っていくオセロー将軍。その手腕も見事ですが、幾つかの下拵えがあったにしろ「正直で」「誠実な」イアーゴーの言葉だったからこそあんなにも早い段階でオセローは動揺を見せる。副官にこそ選ばれなかったものの復讐と姦計に走る以前の「正直者のイアーゴー」への信頼も相当数あったことが窺えます。

信頼していた筈のデズデモーナとキャシオーに裏切られたと思い込まされて。唯一残った(と思い込まされている)「誠実な」イアーゴーへの「信頼」だけを頼りにするようになっていく。こうして毒が回るほどには、それまで築き上げてきた他者から見た「正直者のイアーゴー」の土台はしっかりしていたわけです。

 この復讐劇の幕が上がる以前のイアーゴーがどんな人物であったのか。私達は登場人物の言動から読み取るより他にありません。復讐心を抱くまでは、多少なりとも善良な人間だったのか。それとも最初から計算ずくの悪党であったのか。それでも、その「正直者」の姿全てが虚構であったとは、私は考えづらいと思うのです。

 

 

三つ目の動機、「オセローやキャシオーに寝床を取られた」という発言があり「その仕返しだ」と言っていること。

普通に考えれば、暗にエミーリアの浮気を指している発言だと思うのですが、怒りの矛先がエミーリアには向いていないのも不思議なところ。作中でイアーゴーの口から語られる時も「世間の噂では」と漠然とした根拠である上に、エミーリアの方も浮気することに対して思わせぶりな発言はあるものの具体的な話はなく、事実なのかも最後まで曖昧で今ひとつ根拠に欠ける為。どうしても根拠といってしまうには弱く、オセロー将軍とデズデモーナの仲を引き裂くことへの正統性を後付けするような位置づけの動機な気がします。

それ自体が動機というよりは、動機の一部というような印象。ここに対する怒りもあるにはあるのだけれど、他の動機のほうが感情としては強いのかなぁと。とはいえ、エミーリアに対する感情もないわけではなく、そこは後程語らせていただこうかと思います。

 

 

 

イアーゴーにとって本当に欲しかったは何だったのか。

 

一番は「副官の座」であったと思います。そのついでに、オセローとデズデモーナの関係を引っ掻き回して二人の仲を破綻とまではいかなくとも徐々に冷えていくように仕向けられたら上々くらいに考えていたのかもしれません。

 

物語は終盤になればなる程に、誰もが破滅的な方向へとひた走ってゆきますが、これだけ頭のいい人物が、自分の利益とならない計画を描く筈はないと思うんですよね。

少なくとも彼の一番欲しいものが「副官の座」であるなら、その効力を発揮させるオセロー将軍を破滅させるメリットはないわけです。せいぜい追い落としたいのはキャシオーぐらいだった筈。

 

しかし、自分の毒で普段の猛々しく勇敢で立派なオセロー将軍があれほどまでに取り乱していく。

その快感に彼は自分の中で、「もっとこの男を自分の言葉で追い落としてやりたい」という欲望が膨れ上がっていくことに気づかなくなっていく。

それと同時にこの辺りから、彼の人間観察眼も少しずつ曇っていくようにも思えます。

 

 

人のことをよく見ていて、その人の望むものを上手く利用し巧みに物事を動かしていくイアーゴー。

デズデモーナへの恋慕にしろ、浮気への仕返しにしろオセロー夫妻の関係を良く思わず、破綻させてやろうと思い描く彼ですが、「浮気をさせる」ではなく「浮気をしたと思い込ませる」という計略を選んでいる点で、ここでもその観察眼は正しいと言わざるを得ません。

卑屈でどうしようもない悪人であるにも関わらず、イアーゴーは二人のお互いへの愛が本物で、覆らないと正しく見抜いていたからこそ「浮気をさせる」ではなく「したと思い込ませる」という方法を取ったのです。

 

 

 

彼の誤算があるとしたら二つ、「ハンカチ」とオセロー将軍という人の高潔さを見誤っていたこと。

そして何よりも、自分の中で膨れ上がっていく欲望の醜さに気づかずにいたこと。

 

思えば、前々からエミーリアに根回しし仕込んでいたとしても「ハンカチ」もうまく、このタイミングで手に入るかはわからない不確定要素でした。

 

彼の誤算は、あまりにも適切なタイミングで手に入ってしまったハンカチにより毒が効きすぎてしまったこと。

 

そしてオセロー将軍は、不貞を働いた妻を、生かしてはおけない程に深く愛していた高潔な人物であったこと。

 

先に、三つ目の動機は重要ではないとも書きましたがファクターとしては大事なもので、この点において二人の不貞に対する考え方のちがいが浮き出ているようにも思います。

イアーゴーにとっては、不貞を働いたとしても妻は許せる、少なくともその怒りを打ち付ける相手は妻ではなく相手方のほうな印象。

しかし、オセロー将軍にとっては、もはや清らかではなくなった妻は許せる対象ではないわけです。貞淑ではないと知った妻を、それでも嫌いになることも愛を捨てることもできなくて、その果てに「もはや生かしてはおけない」と選択してしまうほどに深く愛していた。

 

 

 

 

再三言って来ましたが、私の抱いたこの劇中のイアーゴーは人間関係をよく理解し、どこに綻びを入れれば良いか何を言えばいいかを見抜ける頭のいい人物です。

これまで「正直者のイアーゴー」を演じる中でも、その才能を上手く使ったり、ちょっとした悪事を働いてきた部分もあったのかもしれませんが、副官に任命されなかったことをきっかけにその才能を完全に自分の欲望の為に、誰かを害するという悪い方向に使い始めてしまいます。

 

オセローやキャシオーへの暗い嫉妬・復讐心と、ものごとが自分の思い通りに運ぶことに、誰かを思いのままに転ばす万能感に。溺れるにつれて彼は自分の欲望が膨れ上がっていくことに気づかなくなっていくような気がします。

あれだけ、周りの人物のことは相関関係が見えているのに、自分のことは見えなくなっていく。欲深さが暴走して、やり過ぎていることにすら気づかなくなっていく。

 

自分の口の上手さに、振り回されていたのは果たして誰だったのでしょう。

自分が振り回しているつもりで、いつの間にか物事は自分が思い描いた以上のことになっていって。

 

漸く気づくのは、デズデモーナに泣きつかれる頃なのですが、ロダリーゴーに問い詰められキャシオーの昇進という出来事も間近に迫り後戻りが出来なくなって。全ての人間が破滅に向かっていく。

 

 

 

そして、あれだけ周りの人間のことは相関関係に目を配り、人から人への感情の向きをよく理解し、利用しているイアーゴーが、自分以外であまり気に掛けていない登場人物が一人だけいます。そう、エミーリア。

 

このオセロー及びイアーゴーをを語るに至って、避けては通れないのがエミーリア。
終わって私がエミーリアに抱いた印象は「清濁合わせ持つことのできる人」でした。


ああいう中世の、キリスト色の強い世界観っていうのは善か悪か。みたいな二極化傾向の考え方が強いと思うので、エミーリアのような清濁合わせもつという人間観を持てるのは稀というか、女性ならではの柔軟さなのかもしれないですけど(比較対象とできる女性自体がそもそも作中に少ないので… )少なくともこの作品の登場人物の中では珍しい考え方なのではと思います。
同じく人を見る目があって視野の広いイアーゴーも、そんな考え方のできるエミーリアを「聡明な女性」としてちゃんと愛してた部分があったんじゃないかなあ…だって盲目に何かを頼って信じきって祈るようなタイプよりこういうしっかりした考え方できる女性の方がイアーゴー好きそうじゃない? あったらいいなぁ…というのは完全に私の希望観ですが。

デズデモーナに対する感情が憧憬のようなものだとするなら、イアーゴーがエミーリアをどう思っているかと言えば「妻は夫に従うもの」という古典的な亭主観…と言ってしまえばそれまでなんですが、強引に言ってしまえばそれは妻に対する”信頼”であったとも思うのです。”信頼”と言ってしまうには乱暴かもしれないけれど、エミーリアは当然自分に従うもの・自分の一部とでもいう感覚があったのかもしれません。

自分に従順な妻として、という感覚ではあったにしろ悪党イアーゴーなりの愛はそこにはあったのだと信じたい。

 

話を戻しまして、それまではボヤッと人柄が掴めなかった女性エミーリアがハッキリと輪郭をもつのはやっぱりあのシーンだと思うんです。

「お月さまの前では、私だって御遠慮申し上げます。けど、闇夜の時なら結構やれますよ。」

世界の全てが手に入るなら、罪を犯せるものですよ。と、歌うように無邪気な声でデズデモーナに伝えるエミーリア。そんな女本当にいるの?と尋ねるのに「おりますよ。1ダースくらいおります」

 

人間ってそんなものですよ。と奥様に歌うように告げるエミーリアは魅力的ですよね。強い女性なのだな、と思います。自分も含め、人には濁った面だってあってでもそれが人間なのだと明るい少女の声で言うエミーリアは、作中ある意味一番人間らしくて、イアーゴーの妻であるに足りる強い女性だと思います。この「オセロー」のイアーゴー夫婦像がとても好き。

「でも、妻が罪を犯すのは夫のせいだと思います」とも伝えるエミーリア。このあたりの流れから、ラストまでのエミーリアの言動の中で、エミーリアが奥様をどう思っているかも徐々に明らかになっていく所だと思います。

人間は「悪にも善にもなれるもの」「善も悪も両方とも自分の中に持っているもの」。そういうどうしようもないものだと、そんな人間観を持っているエミーリアだからこそ、どこまでも清らかでオセロー将軍への愛に苦しんだデズデモーナを「あんなに清らかな人はいない」「天使のような奥様」とその一途なまでの純粋さに心打たれるわけです。最後にデズデモーナの傍で嘆くエミーリアは見ていて心が苦しくなるくらい。

 


もう一つ重要なことは、「清濁合わせもつ」ということは逆のことも言えるのではないかと。即ちエミーリアは「どんな善人だって悪いことはするもの」という受け容れができる人物である一方で、裏を返せば「どんな悪い人間でも一欠片の良心はあるもの」という人間観もエミーリアの中には実はあったのではないでしょうか。

 エミーリア嬢がオセロー将軍が妻の不義を疑うようになったことについて、そんなことを言って唆すような奴がいるとするなら悪魔か何かに違いない。というようなセリフを言うシーンがあったと思うのですが、最初は自分の夫の悪事に気づいていて、示唆しているかにも聞こえたこの台詞。改めて考えると。「そんなひどい企みができる人なんていない」とも取れるのです。

事実、最後までエミーリアは薄々何かしていることには気づいていても、自分の夫がこの企みの実行犯だとは気づいていなかったのですから。

 

 

何が言いたいかというと、エミーリアも他の人よりイアーゴーのどうしようもない面や傲慢な所を知っていたとしても「人間なんてそういう面もある」という受け止めができるエミーリアも信じていたのは「正直者のイアーゴー」であったと思うのです。悪性の面を持っていたとしても、夫の善性の顔をも信じていたし普通の、どこにでもいる普通の人と映っていたと思うのです。イアーゴーに限らず全ての人に対して、「人間は悪いことをするものだけど、ひとかけらの良心もあるのだから完全に悪魔みたいな奴はいる筈がない」という考えもあったのかもしれない。

 それだから、ハンカチの真相に気づいてしまった時。自分の夫が真の悪魔であると気づいてしまった時。そりゃあ黙れませんよね。「言わずにいられるものか、世界中の誰が寄ってたかってきたって言うだけのことは言わせてもらいます!」となるわけです。

 

 

 果たして、「悪魔」に気づいていた人間はどれだけいたのか。イアーゴー本人ですら、自分の中にいる悪魔の大きさを正しくは理解していなかったのかも知れません。

この舞台の最大の特徴とも言える幕切れ。

自分の欲望が見えなくなって、ロダリーゴーを殺害してすべてを破滅に走らせて。

最後にはこの騒動の果てに、敵国の兵にすべて皆殺しにされてしまうラスト。

結局彼の謀略の果てに行き着いた結末は、自国の為にすらならないのです。いや、ここまで人心を掌握し、ことを為したイアーゴーなら全て失ったここから口先八丁で成り上がる可能性だってないとも言い切れませんが。

仕える主も、思慕を抱いた美しい人も、エミーリアも、同じ国の戦士達も。何もかもをすべて失って一人残されるあのラストは、「結局お前はなにが欲しかったんだ?」と言われているようにしか、私には見えませんでした。

 

 

 

この「正直者のイアーゴー」が虚構であるか否かは、最終的には彼の真ごころがどれだけその姿に伴っていたか否かにジャッジは委ねられると思います。

これだけ色々言って来ましたが、エミーリアにハンカチを取って来いといいつけ、以前から画策していた様子のイアーゴーはやっぱり根っからの極悪人なんじゃないかなーと解釈してしまっても納得はいくのですが。

 

鏡に映る自分に慄くあの場面。

 

打ち萎れたデズデモーナに戸惑うあの一瞬。

 

お前が副官だと言われた時のハッとした表情。

夫としての驕りはありつつも、エミーリアに置いていたように見える愛情と信頼。

 

神ちゃんが演じるイアーゴーには、「正直で、誠実なイアーゴー」が完全なる虚構ではないように感じられる。どこまでもどうしようもない人間の欲深さと、ドロドロとした暗い悪意に彩られた人物像を描きながらも「正直者のイアーゴー」もどこかしらただの仮面ではなく、彼の真実だったのではと思える一瞬がある。

そう考えたほうが腑に落ちるのです。

 

 

 

正直、この圧巻の舞台のどこまでが翼くんの為に用意されていたものだったのだろうとか、そういうことも考えてしまうけど。舞台とは本番公演を重ねていく中でさえも柔軟に変化していくものだから。

そんな舞台現場を支える芝翫さんを始めこの舞台に関わってくださった全ての方たちの助力もあって。そしてその期待に応えるべく全身全霊で代役とはいえ走り抜けた、あれは確かに「神山くんの」イアーゴーでした。

解釈の幅の広いこの演目は、それこそ何百年も公演されてきてその度に違ったイアーゴーがいたんだろうなと、例え他のスタッフや共演者さんが同じだとしても、演じる人が1人違うだけで、また違った箇所が違うセリフが魅了となってくる。「オセロー」とはそんな舞台だと思います。いつか翼くんのイアーゴーが見られる日を願ってやみません。

 

素晴らしい舞台を、本当にありがとうございました。